つれづれなるままにいぃぃぃぃいいいい

就活を終え暇を持て余した学生が日々の退屈に挑む体験記

矜持

今日、友人と言い合いをした。

柄にもなく言い張ってしまった。

ただお互いの畑が違ったことが原因で始まったことだった。

 

短い話ではあるが、

それは競争心だったのかプライドだったのか

 

結論としてはプライドだった。

別に彼に対して勝とうという意識はなく、

自分の中のものを守ろうという意識、

つまりプライドで言葉を返していた。

 

いま、

なぜか、後悔している。

 

自分をさらけ出すことが苦手、嫌いだからだ。

 

ただあの時に言い返さなかった方がいまのぼくは辛かったろう。 

 

大切なものは守る

それ以外はなんでもいい。

 

極論だがこの意識は持ち合わせていきたい。

大切なものだけは確実に守れるように。

全て

「それじゃあ、それが1番大きいの?」

「そうだよそれが世界で1番大きいんだ。」

「どうしてそれが世界で1番大きいってわかるの?」

「それはそれが世界で1番大きいって決まっているからだよ。」

「世界で1番大きいって決まっているとそれが1番大きいってわかるの?」

「そうだよ。まだだれもそれを見ていないのにそれが世界で1番大きいものだってわかるんだ。」

「なんでまだだれもそれを見てないのに世界はそれが大きいことをしってるの?」

「それが世界から生まれたからだよ。」

普通であることの必要性

共同体の中で、特に社会的な共同体の中で常に求められるものは「普通」であることであろう。


友人関係の中でも当然求められるが、
拘束力が比較的薄い友だちという間柄では、
自然と「普通」が、つまり最低限の価値観が似通ったものが集まっているように感じる。

 


繰り返しになるが
コミュニティに求められるものは「普通」であることだ。
コミュニティに求められること、
それはつまり
他者に求められることだ。自分ではない何者かにその人の価値観の上で利用価値があると判断されることだ。

 


よく教則本や教則動画の類を見ると
自分やその他のユーザーに良い評価をされるものは「わかりやすい」という点で人気を集めているように感じる。


昨日見たギターの教則動画では、
まさにぼくが疑問に思っていたことを、いままさに必要だと感じていたものを説明していた。


それは画面の中の彼はギターを学ぶ上で「必要である」と経験上知っているものを
動画として配信しているわけで、
「必要である」と感じる価値観は
彼自身の経験に基づくものだと考えて相違ないものだとぼくは考える。


その動画が人から評価を受けるのは
「必要である」と感じる価値観こそが
その類の動画を視聴するユーザーたちの中でも「普通」として認識されているからに他ならない。


ときにだれがが似たようなことを言ったが、
人から評価を受けるにたる存在の最低条件は凡人であることである
ということに通じる。


今でこそプロになった彼も
かつて凡人であったからこそ、
彼の配信する動画は多くの必要を求められているのだろう。


友人関係であれば、
「普通」の価値観を自分勝手にアップデートしたとて
今ある友人関係すらもアップデートしてしまえば
なんら問題は生じない。


一方で、コミュニティを離れる理由として「普通」の価値観の相違を振りかざせない場合、
自分の置かれる場が変わろうとも、他者の状況を汲み取り、「普通」の認識を理解しなければ他者から必要とされる機会は、そうでないときに比べて少ないものになるだろう。


その離れがたいコミュニティとは
言わずもがな会社を含めた集団を指している。
会社で必要とされる人材であるために、会社の「普通」を理解し、取引先の「普通」を理解し
それに迎合することこそが良い評価を得る王道だろう。


もちろんそれが最低条件であるということを忘れてはならない。

水に流す

大概ここに書き込む時は地元の河川敷にいる。

 

河川敷に来るときは往々にして天気がいいときだ。

まあそれはそうだろう。

 

でも来るときは大抵何かしらのマイナスの感情がたまっているときだと思う。

 

全部海まで流してしまおう。

どうしたいんだろう

期待と責任は背負いたくない。

 

 

いつからかそう思ってる。

期待に応える人はすごいと思うし

責任感のある人はかっこいい。

 

だからと言ってそうなりたいかは

また別の話だと思う。

 

もちろん

他人から評価はされたい。

がんばった分、褒められたい。

 

 

「期待と責任を背負いたくない」

というのは、

ぼくの中では

「ぼくが他の部分を見て欲しいからだと思っているから」

と思っている。

 

社会人になるまでやってきたことが

表現や人に伝えることだったからだろう。

 

 

他人にやっていることを、

ぼくが義務的にしていることだと

認識されたくない。

 

ぼくがいままでしてきたことで

いつも思っていたのは

「届け、ぼくの気持ち!」

といったところだ。

 

だからこそ、

義務的な、つまりシステマチックな捉え方をされてしまうと

感情が入り込む隙間が

狭くなってしまう気がする。

 

きっとそういう思考が、

ぼくの認められたい承認欲求を

抑圧している節もあるだろう。

 

 

ぼくにとって、

その欲求が満たされながら

ぼくの理想も追求できる環境は、

とても素晴らしいユートピアなんだろうな。

 

 

今は所詮、

ユートピアに過ぎないと思っているけれど

目標になるくらいの現実味を帯びだしたら

ぼくはどうなってしまうのだろう。

 

 

どうなってしまうのだろうな。

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楽しい休日

連休が明けた。

 

友達と楽しい休日を過ごした。

 

学生時代と同じことはしてみても感じ方が変わったと思う。

 

なんとなくで楽しんでいたものを

しっかりと楽しもう、楽しめる、

そんな感じになったんだと思う。

 

どっちがいいかはわからないけれど、

どちらがいいかを考えたくはない。

 

それは別に

「学生時代の休日のイベントの方が楽しかった」

という明言が出てしまうかもしれない

と言った不安から生まれるものではないようだ。

 

こういって文字に起こすこと自体、

内心ではわかっているのではないかと

自分自身で投げかけることになるのだろうけれども、

現時点では違うと言える。

 

それは実際に、

連休を楽しかったとはっきりと断言できるからだし、

 

楽しいと感じることは

一過性のものであるからだ。

 

 

だれかの言葉で

多くの人は過去に意味を持たせるために今を生きている

ときいた。

 

今の僕自身を振り返ると確かにそうだと納得した。

 

 

僕個人の理想としては

人は夢を見るものだし、

未来に期待をして探すべきだと思っている。

 

でも

そう思っていても、

本当のところはどうなんだろう。

 

結局過去に意味を見出したいがために、

すぐ過去になる今の自分を納得させるために、

未来とも言えなさそうなすごく近い先ばかりを

意識していそうだ。

 

 

変わりたいなと思う

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慣れ

みんなとなにかをするのは楽しい。

 

 

今日は懇親会というものがあった。

社内外の人がいる。

 

見知らぬ顔と、よく見た顔と、

顔は知ってるけどそこまで仲良くないよねって人。

 

社会人になって3週目になった。

環境にはだいぶ慣れてきた。

と思ってる。

 

ぼくはそんなときに、

3番目の人と話すようだ。

 

なにもない状態からの新規開拓ってのは

どうしても面倒なものだ。

そんでもって最近の社会では重宝されることらしい。

まあそういうもんだろう。

 

 

よくわからないけど

ぽくいうと

馴れ合いは楽だし楽しいから好きだけど、

なんとなく怖い。

 

 

「成長」とか「自律」とか

求められてるんだと思う。

 

それでみんな頑張って、

「競争」とか「表彰」とか。

すごいなぁと思う。

 

「ぼくは社会に向いてない」

とかそんな度胸の効いたこと言えないし、

みんな奥底では

今の自分を心配してるんだと思ってる。

 

そう思うと

みんなが普段考えている一歩手前までしか

ぼくは考えてないんだなとも思う。

 

ぼくが楽しくしてる間に

ああ、みんなはもっと先を見てるんだな

って感じさせられる。

 

 

だからといって

「やったるぞ!」

って結論に当たらないから

今日もここにいるんだろうな。f:id:superbigstone:20190424213614j:image